日本書紀、神功紀(岩波書店版)に「五十五年に、百済の肖古王薨せぬ」とある。この記事に対して岩波書店の注釈では、「乙亥年。書紀紀年で二五五年。干支二運さげて三七五年。三国史記に近肖古王三〇年(乙亥年三七五年)の冬十一月王薨とあり、両者一致する。したがって本条は百済側の資料にもとづいて作った記事」とある。
岩波書店のこの注釈は正しいとみてよい。書紀による干支・紀年を利用した年代繰上げをもとに戻し、計算しなおすと、神功55を近肖古王三〇年(乙亥年)の死=375年とすると、二運繰上げしていると見て、神功55は、375-120=255である。日本書紀は神功を卑弥呼に擬しているのでこのような干支二運あげの操作をやった。神功在世期間は神功69年だから、卑弥呼の死、248年を含み、さらに「晋書」記載の「倭からの266年の遣使」までも含んでいる。
魏志倭人伝によれば、卑弥呼が死んで男王が立てられたが、倭では諸国がおさまらず、国内が内戦となり、乱れたと言う。それで卑弥呼の宗女の壱与がたてられ、それで諸国がおさまったという。
私の説では、日本書紀から読みとると、奴国の景行がたつと、景行にいくつかの部族、国は賛成した。しかし、景行12年に禰疑野(邪馬台国)は反対し、激戦になった。ここに邪馬台国とは、竹田、阿蘇産山町山鹿など阿蘇外輪山東隣接地域および阿蘇外輪山東南や祖母山山麓周辺あたりまでを含む。
年紀を計算してみよう。
神功1年は、375-55=320となる。
神功の前三代は、景行56年間、成務4年間、仲哀9年間で計69年間。これを邪馬台国と対立する一国の紀年とすると神功1年は、320だから、320-69=251年頃、景行の元年となる。
邪馬台国の卑弥呼の死は、魏志倭人伝によると247~248年頃で、その後、男王が立てられたが、「国中服さず、再び殺し合い、この時千余人が殺され」、卑弥呼の宗女の壱与がたてられ、それで諸国がおさまったという。
卑弥呼死後の男王擁立を景行とし、男王擁立後の戦乱を禰疑野(邪馬台国)での景行の戦争とすると、景行の活動期と一致する。つまり、卑弥呼の死が魏志倭人伝では247~248年頃であり、その後、魏志倭人伝がいう男王が立てられ、それが日本書紀の景行であるとして、魏志倭人伝の倭国の歴史記載と照応させることが出来る。
魏志倭人伝では、卑弥呼の死と男王擁立後の戦乱も、また卑弥呼の宗女の壱与がたてられ、それで諸国がおさまったのも、正始八年(247年)の以降の記事として並べられている。したがって、男王擁立後の戦乱と卑弥呼の宗女の壱与擁立も247~248年頃として読めるが、男王擁立の経過、戦乱の期間、卑弥呼の宗女の壱与擁立の経過期間から考えると時系列としてはかなりの差があるのではなかろうか。卑弥呼死後から壱与擁立までの正確な年紀は出しにくい。
日本書紀では、禰疑野(邪馬台国)での激戦の後、景行の謀略によって景行になびいて父である襲国の首長を殺した市乾鹿文を殺し、妹の市鹿文を「火国造」にしたといっている。これが景行12年12月である。景行12年とは、私の計算では251+12=263~264年頃となる。
景行12年とは、卑弥呼死後の男王擁立と倭戦乱、戦後処理、その後の景行の本国での倭女王としての壱与承認とみて不都合はないと私は考えている。禰疑野での景行の戦争から熊襲の娘、市鹿文の「火国造」就任までを日本書紀は「景行12年の記事」としてまとめたと私は解釈している。
「晋書」には、倭から266年の遣使のことが記録されており、女王壱与つまり妹の市鹿文の遣使であろう。
その後413年(倭使、東晋へ)まで中国の史書に倭の記事なしとなる。
「晋書」の倭からの266年の遣使から413年までの中国史書での記載無しという空白を、日本書紀から読み取ると、その後、壱与(市鹿文)と熊襲勢力に対して、成務、仲哀、神功が闘いを挑んだようである。それはすでに述べた怡土(伊都)での神功と一大卒の羽白熊鷲との戦い、また筑後の山門県の田油津媛との戦いである。
こうして、私の説では、卑弥呼死後の300年代は倭奴国連合と邪馬台国連合との闘いということになる。これは、その後中国の史書に413年まで倭の記事がないことと照応している。
奴国は神功―応神をしてその後、近畿へ進出する。
(注)日本書紀では神功皇后を卑弥呼に擬しているので、神功皇后の年代を二巡ほど引き上げていた。計算では、神功1年は320年頃となる。
古事記では、崇神の没年干支は「戌寅」で西暦318年、神功皇后の没年は日本書紀「己丑」とすれば389年という事になる。
古事記、日本書紀ともに、崇神と神功皇后との間に垂仁、景行、成務、仲哀と入るので、崇神の没年干支は「戌寅」で西暦318年という古事記の紀年をとり、かつ神功1年は320年頃をとると、景行から神功皇后までの九州遠征をし、熊襲と戦ったタラシ系とその前の崇神、垂仁とは別系統と見なければならない。なぜなら、在世期間が重なるので崇神、垂仁系と熊襲と戦ったタラシ系とは同一地域ではありえない。
景行や神功という名称で「熊襲と戦った事蹟をもつ人々」は奈良県からの遠征軍ではない。 日本書紀の造作は、考古学的にみてもわかる。禰疑野(菅生台)での戦いでは、矢が景行軍に「雨の如し」降ってくる描写がある。「邪馬台国の会」の「諸遺物の県別出土状況のデータ」によると、弥生時代の鉄鏃は福岡県4遺跡で398、大分県2遺跡で241、熊本県1遺跡で339であり、奈良県4である。弥生時代の鉄鏃、大分県2遺跡で241は、弥生後期のものであり、景行軍に「雨の如し」降ってくる描写は写実的である。
鉄鏃4の奈良県の軍では、生産力の差がありすぎて熊襲地域での戦争などできない。「熊襲と戦った事蹟をもつ人々」は奈良県からの遠征軍ではなく、福岡県の部隊である。
後世、日本書紀が描写の対象とした「景行、仲哀、神功という名称での熊襲との戦争」が、日本書紀の記事では近畿勢の所作とする逆転と造作がおこなわれたのである。
(注)応神東征と馬具、鉄
神功皇后の没年を日本書紀「己丑」とし、それを389年とすると、応神の近畿への東征進出はその頃となろうか。馬具の出土からみると5C前後、筑後・豊前、5C末、安芸・吉備、5C中、播磨、紀伊、堺、五条に5C末以降。播磨、紀伊、堺、五条の馬具を5C末死亡の応神東征の騎兵の埋葬品とするとだいたい年代的にも合う。鉄器の使用については、大和では4Cから5C初には考古学的痕跡は見わたらないといわれている。ウワナベ古墳から鉄鋋が872枚も出るようになる5C中、末には武器と生産手段の基礎が主要には鉄に移行しつつあったことを示している。同時に、鉄鋋は貨幣として古墳に蓄積されたのである。