故土屋文明氏は「万葉紀行」で近江の蒲生野が舞台といわれている次の歌をあげて、蒲生野地での紫草発見のための踏査によって紫草の生育条件があったのか、また蒲生野に紫草園が実在したのか論じておられる。
天皇遊猟蒲生野時額田王作歌
あかねさす紫野(むらさきぬ)行き標野(しめぬ)行き野守(ぬもり)は見ずや君が袖ふる(巻1、20)
この有名な歌は、「紀曰。天皇(天智)七年丁卯夏五月五日縦猟於蒲生野。干時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉従焉。」といわれている。ところが、土屋文明著「万葉紀行」の「蒲生野」によれば、土屋文明氏は実地検分をしても紫草をみつけられず、その失望が語られている。氏は「蒲生野のものは採集にあい絶滅したのであろうか。」とか「蒲生野を栽培地として撰定するとなれば、これはどうもあまり有望の地ではないらしい。」としている。そして「正倉院文書にのこっている紫草園の記事は、いずれも豊後国玖珠郡、直入郡であるが、この方は火山土質の地方であるから好適地であることはいうまでもない。」と述べている。そして結局、紫草の栽培地としての近江の蒲生野を否定している。紫草の栽培地としての近江の蒲生野の否定からは「紀曰。天皇(天智)七年丁卯夏五月五日縦猟於蒲生野。干時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉従焉。」という万葉集の編者の「於蒲生野」という添え書きに疑問が生じる。この歌の真の舞台はどこなのか。土屋文明氏がいうように「正倉院文書にのこっている紫草園の記事は、いずれも豊後国玖珠郡、直入郡であるが、この方は火山土質の地方であるから好適地であることはいうまでもない。」という事実は重要であると私は考えている。豊後竹田の志土知に紫神社がある。志土知は、志土知=紫土地のことであり、紫草の土地ということである。額田王の歌の舞台は、竹田の志土知ではないか。
万葉集に「紫は灰さすものぞ 海石榴市の八十の衢に会える子や誰」(万葉集十二 3101)という歌がある。この海石榴市とは、奈良県桜井市の海石榴市ではなく、「正倉院文書にのこっている紫草園の記事は、いずれも豊後国玖珠郡、直入郡」という具体的事実から私が俀国の郊外とする「豊後風土記大野の郡」にある海石榴市(現緒方町知田付近)のことである。「紫は灰さすものぞ」とは紫色を染めるのに椿の灰を加えればよく染まるということである。景行紀に、禰宜野の敵軍の雨のごとく降ってくる矢に、景行軍が海石榴(つばき)の木で椎をつくり立ち向かったという。よって海石榴市という地名になったという地名説話がある。それによれば邪馬台国時代から海石榴市があったということになる。海石榴市が緒方町知田付近だったとすれば、直入、竹田には古代から紫染めの必要、十分条件がそろっていたことになる。まさに「紫(し)め野」である。直入には阿蘇よりの禰宜野近くに火山灰土壌の紫土知=志土知があり、南東に海石榴市がある。直入の紫土知や椿灰の「紫め野」海石榴市が、額田王作歌の舞台である。竹田では「正倉院文書」以前の古代から紫の大量生産をやっていたことが分かる。邪馬台国の卑弥呼の魏王朝への献上品として「絳青縑」がある。「縑」(けん)とは二本の絹糸を用いた織物であるらしい。私は、直入は桑の産地であったことを述べたが、それは絹生産をしていたということである。ところで「絳青縑」の青が紫草染め(青がかった紫)ならば、紫草の組織的大量生産をやっていたのは記録上「豊後国玖珠郡、直入郡」のみだから、邪馬台国の卑弥呼の魏王朝への献上品としての「絳青縑」とは、直入産ではないのか。「絳青縑」は、中国にはない倭国特産であると仮定し、かつ紫草の栽培には火山土質の地方が好適地という事実によって、それは阿蘇・九重火山土質の直入の組織的生産物であり、直入=邪馬台国ならば邪馬台国特産ということでないだろうか。
あかねさす紫野(むらさきぬ)行き標野(しめぬ)行き野守(ぬもり)は見ずや君が袖ふる(巻1、20) に対して
皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇
紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人嬬(ひとづま)ゆゑに吾恋ひめやも(21) とある歌は、天武といわれている。
(注)(巻1、20)「紫野(むらさきぬ)行き標野(しめぬ)行き」の「しめ」については第二部Ⅲの(「止美能乎何波乃」と綵絹(しみのきぬ)) ①「止美能乎何波乃」と十七条憲法および第二部[補論6]のⅥ.「あかねさす紫野の舞台、および天武の幼年と青年時代」でさらに言及される。