阿蘇外輪山と「聖徳」
        ―邪馬台国と俀国を求めて

目次

第一部  古代奈保里―阿蘇―高千穂(増補)

第1篇 魏志と隋書からの「邪馬壱国(台国)への行程」

Ⅰ.「隋書俀国伝の行程」  二一
 ☆俀国の都が「魏志の邪馬台」  二一
 ☆『秦王国』へ  二二
 (秦王国は日田か)  二四
 ☆「海岸」と俀国の「都の郊外」へ  二六
Ⅱ.「魏志倭人伝の行程」‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐二九
 ☆「東南陸行五百里、到伊都国」の「東南」の怪  三〇
 ☆「南至邪馬壱国…、水行十日、陸行一月」の怪  三〇
 ☆ 「投馬国」とは日田の南地域、「五馬」  三二
Ⅲ.「都の郊外」と「邪靡堆」=「魏志の邪馬台」‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐三五
Ⅳ 有力な他説の検討‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐三七
 (「万二千里」過不足論の検討)  三七
 (方位について)  三九

第2篇 日本書紀の邪馬台国残影、古代「奈保里」(直入)

Ⅰ.「景行紀」から「仲哀紀」「神功紀」まで‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐四二
(一)熊襲との戦争  四二
  (景行軍の遠征行路と戦闘)  四三
  (仲哀、神功と熊襲)  四四
 (二)タラシ系は倭奴国系  四七
 (1)後漢書と志賀島出土の金印  四七
 (2)応神王朝の起源は奴国  四八
 (3)神功、応神は邪馬台国系ではない  五〇
Ⅱ.魏志倭人伝と景行、仲哀、神功紀‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐五一
 (一)景行紀と邪馬台国  五二
(1)熊襲の勢力圏  五二
  (「襲国」と「日向国の高屋宮」とはどこか)  五二
  (市鹿文が「火国造」とは)  五五
  (羽白熊鷲は、魏志倭人伝の「一大卒」)  五九
  (神功、応神の近畿進出)  六二
 (二)邪馬台国と年代的証明  六四
Ⅲ.邪馬台国、遺跡と鉄生産‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐六九
(1)遺跡  七〇
(2)阿蘇火山周辺での鉄生産  七一
(3)邪馬台国と産物  七三
(4)紫草と海石榴市  七五
Ⅳ.熊襲とは‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐七八
(熊襲と隼人)  七八
(東海姫氏と「呉の太伯の後裔」、「周代の大夫」)  七九
(小野妹子、蘇因高とは)  八一
(小徳阿輩台とは小野氏の同族、粟田氏か) 八六
[補論1 臭泉(くさいずみ)と鉄剣の草薙剣 ]   八八
Ⅴ.直入の神々と鬼道‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐八九
 (1)鬼道  八九
(2)直入に結集している神々  九三

第3篇 「神々の継承と古代の政治的継承」

Ⅰ.八幡大神はどこから来たか?‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐九四
(1) 奈保里の神  九六
(道教的な神―直日神) 九八
 (鬼神は大蛇かつ大直日神)  一〇〇
  (祖母山と大蛇と鉄)  一〇一
Ⅱ.古代火国の諸部族‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐一〇三
 (1)阿蘇祭神系図の怪と記紀  一〇四
 (2)景行紀、禰疑野の族長と阿蘇伝承との対応  一〇八
 (3)改竄、再編された伝承  一一〇
(神八井耳と欠史第二代天皇、神沼河耳の母)  一一〇
 (4) 神武とは  一一三
  (海部氏諸系図)  一一三
  (建位起命=神武の可能性について)  一一六
 (5)建磐龍命とは  一一九
 (6)火明命は、瓊々杵尊の第二子(書紀本文)か、それとも兄弟(海部勘注系図)か  一二二
(火明命は、瓊々杵の兄)  一二二
(「八阿多鏡」と伊勢)  一二五
  (高千穂王朝とは)  一二八
  (籠の中の主祭神は彦火火出見尊)  一三一
 (7)三女神と八幡の出自  一三三
[補論2―建男霜凝命と建緒組(彦火火出見時代)]  一三五
Ⅲ.鉄文明と建磐龍族の膨張‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐一三九
 (1)阿蘇の鉄を武器に進出  一三九
(筑紫君および阿蘇氏系図)   一四〇
(2)ヲホド王「即位」と「磐井の乱」  一四五
   (ヲホド王の即位と支援勢力)  一四五
 (3)筑紫島と筑紫という地名について  一四八
(4)正八幡と宇佐八幡   一五三
(5)市杵島媛神の東進  一五七
 (6)二人のハツクニシラス  一六一
 (7)姫氏と己氏  一六四
(宇豆比古および莵道彦とは何者か)  一六四
(紀国造と日前神)  一六八
 [補論3―『大和6号墳出土鉄鋋』について]  一七〇
Ⅳ.倭国の王統とその交代と継承の歴史―鎮魂と継承‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐一七三
 (1)倭国の王統とその交代―倭国の領土と変遷  一七四
 (2)倭国の別種、日本国による倭国の併合  一七七
  (俀国の歴史からの抹殺)  一七七
  (「日本国」による「古の倭奴国」系の倭の併合」)  一七九
  (歴史の幻影化とその末裔)  一八〇
(「真野の長者」の話と「阿毎多利思比孤」)一八二
 (3)狗奴国―犬吠の隼人族  一八四
(4)神門神社と最後の俀王―俀王族と残党の行方と消滅  一八八
  [補論4―存在しない年号の紀年鏡と邪馬台国について] 一九六

第二部 阿蘇外輪山と「聖徳」
    ― 俀国天子・阿毎多利思比孤の没年、「己丑」の論証―

(方法の第一)  二〇七
(過去の情報についての観点と方法)  二一一
(文明の発生と民族形成と擬制的な歴史記述) 二一三
Ⅰ.俀国の宗教侵略と飛鳥間接支配‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐二一五
「1」 直入(初期の火国)やその後の火国の本州進出  二一五
(邪馬台国とその後継・俀の勃興 ―鉄、生産力、社会の変遷)  二一五
(建磐龍族の本州進出-国造) 二一八
(奈良県の村落共同体を基盤とする奴隷制と家父長制的奴隷制)  二二〇
(鉄、馬具、阿蘇凝灰石、ピンク石)  二二一
「2」謎の人物・葛城襲津彦について   二二三
「3」「那」の「官家」と欽明  二二八
  (継体の死527年、欽明元年は532年)  二二八
  (「那の官家」(朝廷)と26箇所の屯倉)   二三一
  (豊国では仏教は、日本書紀の用明以前から― 仏教伝来年次問題)  二三三
  (大伴佐堤比古朗子と夫・松浦佐世姫および大伴君熊凝―「磐井の乱」の後)二三五
1.「漢文的修飾の典型的な例」としての「磐井の乱」  二三五
2. 二人の磐―引き続き磐が筑紫の政を執る?     二三七
    3.「大伴佐堤比古朗子」と大伴君熊凝    二三八
    4. 朝倉橘の広庭宮、長安寺と大伴佐堤比古朗子    二四二
  (旧唐書の倭国と日本国との区別をとりいれる)  二四二
「4」俀国の宗教侵略と飛鳥  二四四
 (1)俀国の宗教侵略に怒る物部と火の刺客  二四四
 (2)「訳語田幸玉宮と尼の桜井道場」  二四九
「5」俀国による飛鳥間接支配と奇怪「推古紀」  二五〇
 (1)相関からの分析  二五〇
 (2)擬似的例証  二五四
 (3)真野長者伝説の丁酉(577)の年、真野・物部戦争は、フィクションか 二五九
 (4)倭京二年(619年)「難波天王寺聖徳建」  二六三
「6」大和から駆逐される俀勢力と俀の反撃  二六八
  (駆逐される俀勢力)  二六八
  (俀の反撃)  二七一
「7」その後の難波宮と飛鳥  二七三
  (「初脩京師」の難波宮からの中大兄の逃避)  二七三
  (645年、年号「大化」とは)  二七四

「8」新唐書と「用明亦曰目多利思比弧」  二七六
「9」唐の「遠交近攻」と日本国の 「遠交近攻」 二八〇
   (「別倭種」とは)  二八〇
   (日本国の唐と倭国への「遠交近攻」策) 二八二
Ⅱ.阿蘇外輪山山麓の俀国の天子「阿毎多利思比孤」‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐二八三
「1」猪鹿狼寺の上宮と最澄  二八三
「2」九重と上宮及び暘谷の「加良登の帝」 二八四
「3」「隋からの使節団」と「王后」の「菩岐岐美」、アメタリシヒコの所在  二八七
「4」「蘇莫者(そまくさ)」  二九四
「5」「丈六光銘」の歴史的証言  二九六
(1)「倭国」と「日本国」との区分と元興寺縁起の虚実  二九六
(2)「建興寺、元興寺と法師寺、建通寺」 二九七
 (元の名の建興寺はどこにあったのか)  二九八
(法興寺はもと建通寺か) 二九九
 (真野長者と円通)  三〇〇
(3)716年霊亀二年に移し建てたのは元興寺、718年・養老二年移転したのは「法興寺」  三〇二
(4) 建興寺と建通寺は、どこから飛鳥や奈良に移転されたのか  三〇三
 (芦北は「旧唐書」の「日本国」領内か、それとも「旧唐書」の「倭国」条の「倭国」領内か)   三〇三
(5) 僧官、福亮、熊凝   三〇四
 (日本書紀での僧官制)   三〇四
(大伴君熊凝の火の熊凝)  三〇六
(6)「元興寺と丈六」  三〇七
(釈の福亮、姓・熊凝氏はどこに移り住んだか) 三〇七
(7)元興寺の所在地の最終確認  三一〇
(「陪豊前禁内講三論文」)  三一〇
 (飛鳥寺への天武の口封じ)  三一一
 (「露盤銘」の「戊申」と記載の職人達は、誰の配下で何処の人達か)  三一三
 ①「露盤銘」の「戊申」   三一三
 ②「露盤銘」記載の職人達  三一五
(真野長者の領域と聖徳太子の領域) 三一六
(「倭京」とは、何か)  三二二
「6」 隋使節団の行路と丈六  三二三
 (1) 丈六仏、のちの飛鳥大仏は隋からの北魏様の下賜物か  三二三
 (2) 隋使節団の行路   三二六
  (大分川と向原の寺)   三二六
  (推古十七年・609年4月芦北に漂着したという船は、隋の遣使船か?) 三二八
「7」「九六位」の円通と「韓の槵生(クシフ)村」  三三〇
「8」「釈迦像光背銘」にある「法興」または「法興元世」  三三三
Ⅲ.論考の行き着いた先、―俀国天子・阿毎多利思比孤の没年、己丑」の論証‐‐三三五
(阿毎多利思比孤―真野長者―聖徳)      三三五
(「止美能乎何波乃」と綵絹(しみのきぬ))    三四二
①「止美能乎何波乃」と十七条憲法   三四二
②「片岡山飢者の説話」と竜田山    三四五
(俀国天子・阿毎多利思比孤の没年、「己丑」の論証)  三四八
(「法興元」の解明と「釈迦像光背銘」の改竄の事情)   三五二
(阿毎多利思比孤の聖人化とソクド人)   三五六
(阿毎多利思比孤による斑鳩・竜田の鉄の略奪)  三六一
Ⅳ.<結び> ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐三六五
(Ⅰ) 天王寺・若草伽藍(斑鳩寺)はどこから?  三六五
 (天王寺は誰が建立したのか)     三六五
(Ⅱ)俀の天子の猪鹿狼寺と斑鳩寺   三六六
(加良登の宮殿の帝)   三六六
(奈良の平群には、斑鳩という地名はない)   三六七
(法隆寺再建― 隠された秘密をもつ寺 )  三六八
(釈迦三尊像はどこから持ち込まれたものか)  三七〇
 (法隆寺は誰の遺産を継承したか )   三七六
(Ⅲ)俀国伝と推古紀との長者伝説を介しての相関   三七七
1 「真野長者」=「阿毎多利思比孤」=聖徳    三七七
2  隋使節団の行路    三七七
3  阿毎多利思比孤と厩戸皇子それぞれの没年   三七八
(金銅製灌頂幡、久我大臣の娘・片岡御祖、般若姫)   三七九
(阿毎多利思比孤の父とは)  三八〇
[補論5― 都督と倭王武]   三八二
[補論6― 日本国による倭国の併合]   三八五
Ⅰ.日本国の北九州への南下    三八五
Ⅱ.唐および日本国の遠交近攻   三九〇
Ⅲ.「旧唐書」の「倭国条と日本国条」から日本国による統一   三九三
Ⅳ.「太宰府」と「筑紫都督府」   四〇〇
Ⅴ.「壬申の乱」にいたる矛盾関係  四〇一
Ⅵ.「あかねさす紫野」の舞台、および天武の幼年と青年時代  四〇四
Ⅶ.八幡の苦悩   四〇七
(1)新京「豊前禁内」の消滅と716年元興寺の移築  四〇七
(2) 宗教的逸話形式による宇佐八幡の成立の話  四一一
(3) 元明「諡号称其国其郡朝廷馭宇天皇」  四一二
[補論7-「都を倭国の磯城郡の磯城嶋に遷す」とは]   四一三
[補論8 ―宇佐八幡神託「皇緒ヲ立テヨ」と如意宝珠、金銅製灌頂幡]  四一六
(宮処野神社=嵯峨社および豊国法師)  四一六
(哿瑳武別(かさむわけ)とは)  四一八
(宇佐八幡神託「皇緒ヲ立テヨ」と倭氏)  四一九
(羽白熊鷲と「親魏倭王金印」)  四二二
(第二部あとがき)  四二三