「阿蘇外輪山と『聖徳』―邪馬台国と俀国を求めて」

(羽白熊鷲は、魏志倭人伝の「一大卒」)

①魏志倭人伝は、卑弥呼死後、男王が立ったが戦乱に陥り、その後、卑弥呼の宗女、壱与がたち、戦乱は収まったという。

景行を魏志倭人伝の卑弥呼死後、立った男王とすると、景行紀では、竹田の戦闘にいたるまでの景行軍の行路では、豊前、豊後のそれぞれ一部が景行を支持しており、男王支持、擁立の問題を反映していると考えることができる。

②阿蘇外輪山に隣接の部族との戦争に勝利後、景行は、熊襲の姉妹の姉をたぶらかして熊襲の父を殺害させ、しかもその罪を問い、姉を殺し、その後、妹を火の「国造」にする。これは、男王が立ったが、戦乱に陥ったので、卑弥呼の宗女、壱与(台与)をたて、それで戦乱は収まったという魏志倭人伝の記述に対応している。

 邪馬台国は当時、魏の冊封体制にあったことから、混乱を収拾するために実質的には魏によって派遣されていた張政が壱与を王として擁立したのであろう。このような歴史的事実を背景として、景行による市鹿文「火国造」任命記事は、書かれたのであろう。

③仲哀は、熊襲に負けたという。山門の田油津媛女首長との戦いをみると、日本書紀の神功紀では、熊襲は八女、瀬高あたりの有明海までいる。つまり、神功紀などを逆に読めば、熊襲勢力が、怡土まで進出していたとなろう。

「女王国より以北には特に一大卒を置き、諸国を検察させているので、諸国は恐れ憚っている。常に伊都国に置かれ、中国の州長官のような役人である。」(いき一郎編訳「中国正史の古代日本記録」訳文のまま)と魏志倭人伝は書いている。神功(オキナガタラシ)が怡土で羽白熊鷲を破るということは、羽白熊鷲は、伊都国を支配していたことを推測させる。すると神功と羽白熊鷲との層増岐務(怡土郡雷山中)での戦いを魏志倭人伝にあてはめれば、羽白熊鷲は伊都国に常駐している「一大卒」ということになろうか。

先に奈保里(直入)=火国で、邪馬台国=直入ならば火国=邪馬台国とした。そうすると伊都国に常駐している「一大卒」は、火国から派遣された「中国の州長官のような役人」となろう。正倉院文書、大宝二年(702年)の「筑前国嶋郡川辺里戸籍」に128人の戸口をもつ大戸主であった糸島の嶋郡大領の「肥君猪手」がみえる。時代ははなれているが、支配の世襲制が継続していたとするならば、「肥君猪手」は「一大卒」である羽白熊鷲の末とも推測できる。もしそうならば「肥君」は火君であるから、ここからも火国が邪馬台国であったことが証左されよう。

久住町(都野)の宮処野神社には神保会(ジンボエ)という祭りがある。新任の国司が神宝を奉献する行事であり、神幸に三組の獅子舞と四組の白熊(はぐま)がお供をする。

 私は、景行紀の羽白熊鷲を邪馬台国の一大卒とした。白熊(はぐま)とは、羽白熊鷲のことではないだろうか。九重と久住一帯、阿蘇東外輪山から祖母山までの神社には「白熊行列」の行事が妙に多い。

 白熊とは、毛槍のことというが、その起源は本当にそうであろうか。唐冠形兜というものがあり、中国役人が着用した冠を模しているものがある。「唐津くんち」での源頼光の兜の頭髪も、ヒマラヤ原産の白いヤクの毛である。

 確かに隋、唐では、槍に毛をつけた毛槍がみられる。ところが三国時代、魏、晋時代(西晋、東晋)の兜のみにはヤクの毛が頭髪としてつけられている。倭人伝には邪馬台国の一大卒を「中国の州長官のような役人である」とあるから、羽白熊鷲とは、魏晋時代の役人(刺史、州牧)のヤクの毛が頭髪としてつけられている兜をかぶった邪馬台国の役人ではないのか。その姿が羽白熊鷲にみえ、その略が白熊(はぐま)なのではあるまいか。あるいは白熊(はぐま)の兜を被った役人を日本書紀は羽白熊鷲と蔑称したのではなかろうか。

 戦国の武将、武田信玄の兜は、諏訪大明神から授与された白熊(はぐま)をとりつけた諏訪法性兜であったという。ここでいう白熊(はぐま)とはやはり白いヤクの毛のことであるという。ところで諏訪大社の大祝、上社神氏、下社金刺氏の祖はともに火国阿蘇氏の先祖から来ているという。ここでも火国―白熊(はぐま)の関係がみえる。

ヤクの毛が頭髪としてつけられている魏、晋時代の兜、つまり白熊(はぐま)の兜→「中国の州長官のような役人である」邪馬台国の一大卒→火国から派遣された白熊(はぐま)の兜を被った役人、とくに伊都国に派遣された役人を一大卒といい、日本書紀はそれを羽白熊鷲と書いたのではないか。

さて「続日本紀」には宮中のことを「九重」と書かれてある。久住=九重の宮処野神社は、新任の国司が神宝を奉献する行事に確かに似つかわしい。久住町の宮処野(都野)は卑弥呼の九重=宮中への入口、郊外、祖母山の直入側の緩木社のある九重野は壱与の宮中への入口というのは、穿ちすぎだろうか。

 隋書俀国伝には「有阿蘇山」とあり、したがって邪馬台国や俀国の都からは阿蘇山が少なくとも遠望可能でなければならないだろう。東外輪山に位置する竹田や産山の山鹿からも、また祖母山系の西の九重野からも阿蘇山は遠望できるのである。