(方法の第一)
第一部では、魏志倭人伝と隋書俀国伝をともに正しいとして導いた「邪馬台国」とは「直入、竹田」の地域であった。導いたそこは日本書紀記載の景行軍の最大の敵対勢力地域であった。したがって日本書紀の景行・仲哀・神功紀の内容と魏志倭人伝の行程以外の記載内容を対応させることが出来れば、「邪馬台国=直入、竹田」の文献的証明かつ魏志倭人伝と隋書俀国伝をともに正しいとして導いた方法の正しさの証となるものであった。
第二部の方法も、第一部の成果を基礎にして、隋書俀国伝と記紀および各種の資料との対応関係から考察するというものであるが、今度は少しややこしい。
隋書は隋が滅びた直後、唐初に書かれた同時代史である。私がこれから考察の対象としている日本書紀の主として欽明~推古紀(531年頃~629年頃)は、日本書紀の撰上が720年だから隋書と100年程も差があり、大和(飛鳥)と連続する奈良の同一権力の史書である。
別の言葉を使うと隋書は、唐初に書かれた同時代史であり、720年撰上の日本書紀とは何らのかかわりもなく、つまり日本書紀からは完全に独立している。しかし、日本書紀の編集、作成は隋書から独立しているとは言い切れない。
隋書俀国伝と推古紀にはそれぞれ代表的人物が現れる。隋書に書かれた俀国の天子「阿毎多利思比孤」と推古紀の中心的人物・厩戸皇子(後世の聖徳太子)である。そこで日本書紀の厩戸皇子は、隋書に書かれた俀国の「阿毎多利思比孤」であるという仮説をたて、それを検証しようとすれば、検証の原理からは厩戸皇子は隋書俀国伝に従わなければならない。逆に隋書に書かれた俀国の「阿毎多利思比孤」は、日本書紀の厩戸皇子であるという仮説をたてると、検証の原理から俀国の「阿毎多利思比孤」は日本書紀に従わなければならない。
隋書は隋が滅びた直後の同時代史で、しかも隋、唐に仕えた魏徴が編集したものであり、信頼性が極めて高いものである。日本書紀の撰上は720年だから、史書作成の時系列からいって日本書紀の推古朝の記述は、数学的原理上、隋書俀国伝の俀国の天子「阿毎多利思比孤」に対する検証手段とはなり得ない。したがって日本書紀の厩戸皇子(後世の聖徳太子)は、隋書に書かれた俀国の天子「阿毎多利思比孤」であるとした仮説しかたてられないし、それを検証しようとすれば、検証の原理からは厩戸皇子(後世の聖徳太子)は隋書俀国伝に従わなければならない。
ところで隋書俀国伝と推古紀は、記述対象は同時代であるので、両者を比較するために両者の引き算をするとわかるように、一方で冠位十二階などの照応、他方で男帝と女帝、天子と皇太子、有阿蘇山と阿蘇山無しなど照応しない。そこで、このような隋書俀国伝と日本書紀の推古紀とは照応しそうで照応しない記述、つまり隋書俀国伝と日本書紀の推古朝の記述とを無理に一致させる解釈や不一致の弁解が歴史学としてやられている。しかし、それは先ほど述べたように検証論理的には成り立たない不毛な議論なのである。
一方で冠位十二階などの照応、他方で男帝と女帝、有阿蘇山と阿蘇山無しなど隋書俀国伝と日本書紀の推古紀とは照応しそうで照応しない、この矛盾をどう解くか。
統計学の相関や相関係数の概念に似た思考方法が推察を導く(注1)。隋書に書かれた俀国の天子「阿毎多利思比孤」と厩戸・聖徳太子とは、似ているようで、また天子と太子との違いなど似ていない。しかし、両者の相関係数は0ではなく、1に近づくようでもあり、むしろ近づかないようでもある。つまり強い相関があるのである。もちろん相関とは因果や必然性そのものを意味するものでないが、この場合、単なる相関、類似性だけでなく、影響関係があるとすると、(B)正規の文献・正史日本書紀推古紀は、(A)正規の文献・隋書俀国伝が100年ほど前から存在したからそれを材料に作成されたという影響関係や修飾関係であり、これをA―影響→Bとすると、逆の、B―影響→A は成立しないということである。
以上の論理展開からは結論は一つ。日本書紀の厩戸皇子は、隋書の俀国伝の天子「阿毎多利思比孤」と近似され、脚色された人物として100年ほど後の日本書紀の編集部が描いたとしたら、当然ながら強い相関を持つことが分かる。そして事実、日本書紀は中国書籍のあれこれから修飾されていることが分かっている。したがって日本書紀の厩戸皇子は、隋書に書かれた阿蘇の俀国の天子「阿毎多利思比孤」の仮託された脚色の人物と仮定して、推察することに唯一の科学的妥当性がある。これからは、そのような方法もとる。
ところで、隠れている(C―類)があって、それが媒介してαとβとが相関するように見えるとして、隠れている(C―類)を探すとする。ところが検証すると(C―類)は関係ないか、もともと存在せず、αとβとの相関は全くの仮象ということもありえる。このような擬似相関みたいなこともありえよう。
しかし、A―影響→Bとみえるのは、実は隠れた(C―類)があり、C―影響→Bが隠れており、(C―類)が隠れているので、A―影響→Bのように見えるのかも知れない。つまり他の文書化された資料や伝承類の隠れた介在である。
そのような隠れた介在物の一つと仮定して、豊後の三重町、臼杵の仏教振興の真名野長者(真野長者)伝説等の考察も取り入れる。
仏教振興の真名野長者(真野長者)伝説は、真野長者という人名名詞を伴って本州に類似話もふくめて流布している。豊後では隋で学んだという百済人蓮城という僧侶がでてくる。真野長者伝説は、なぜ豊後発なのか、またなぜ炭焼きなのか、なぜ全国に流布なのか。炭焼きは、鉄やその精錬と関係していることはすぐにわかるが、なぜ豊後発なのか、なぜ全国に流布なのかは分かりにくい。しかも、単なる架空話ではなく、伊豫の真野長者堂がある太山寺や山口県熊毛の般若寺建立の確固たる史実があり、それは奈良朝以前なのである。したがって、真野長者伝承の源泉は、(B)日本書紀推古紀成立よりも古いようである。真野長者は伝承であるので、これを隠れたC―類の一つとするとC・伝承→B・正史文献・日本書紀推古紀という影響も想定できる。
般若寺とは、真野長者が師と仰ぐ恵思が南嶽に建立した般若寺と同名である。しかも、真野長者と同時代の聖徳太子は、恵思の生まれ変わりという。真野長者伝説は、欽明・推古時代に時代対応する話であるが、それは歴史事件の矮小化と拡張化、幻想化と真実の断片、部分化の反映なのであろうか。第二部では真名野長者(真野長者)伝説にも、奈良朝以前の伊豫の太山寺や山口県熊毛の般若寺建立の確固たる史実の裏づけのもとに推論する。つまり隋書に書かれた俀国の天子「阿毎多利思比孤」や厩戸皇子との対応を考える。
(過去の情報についての観点と方法)
ところで海部氏の系図は、第一部ですでに見たように検閲によって修正されていた。奈良朝の寺院に対する統制検閲も激しかったことは間違いない。なぜなら寺院を通して民衆に、そして全国に情報が流れていくからである。だから寺院関係の資料が奈良朝の日本書紀に迎合して、また強制され改竄されたのは間違いない。しかし、その中には部分的な事実や歪められた事実が存在しており、それらを分析しなければならないことも確かである。
たとえば、元興寺縁起には改竄が明らかにある。元興寺縁起は、仏教公伝や元興寺はもと建興寺というとか、仏教については日本書紀よりも真実感や現実感があり、しかも元興寺縁起に引く「丈六光銘」には日本書紀にはない情報もある。それも含めて「天寿国繍帳」など嫌疑がかけられている資料など、これらには「天皇号」やまた暦法について疑義がなされたりして、天武朝、奈良朝以後のものとの説が強い。しかし、これらが奈良朝以前の情報の痕跡を残して、創作、改竄されたものである場合もあろう。
これらをD―類とすると、これらに何らかの真実が全く含まれていないと考えるのは、敵対的な利害関係が作り出した歴史の記載に含まれる造作、修正や転倒、脚色、そして真実の反映に対する虚実の判断を全くなくすることになる。歴史とは、敵対的な利害関係にこそあるからである。
真野長者伝承の源泉は、(B)日本書紀推古紀よりも古いようで、これを隠れたC―類の一つとするとC・伝承→B・正史文献・日本書紀推古紀という影響も想定できるとした。しかし、伝承や逸話は、推論の道筋、やり方によっては大いなる誤謬や誤った仮説を導く。先ほど定義した情報・D―類も同様である。したがって、いつでも(A)正規の文献・隋書俀国伝と100年後の(B)正規の文献・正史日本書紀推古紀との、A―影響→Bが成立し、逆の、B―影響→A は成立しないという命題を基礎とし、C―類やD―類はあくまで「命題としてのA―影響→B」の補助情報とし、命題としてのA―影響→Bに対応する限りでとりあげた。そのためのD―類の分析も、たとえば、仏教公伝や寺院建設で日本書紀と相違する元興寺縁起などは、隋書俀国伝にそって丁寧に分析する必要がある。
D―類には、天皇号を使用している資料もあればそうでない資料もある。天皇号使用のものはすでに創作や改竄されたものであるが、それでもそのなかには新しい情報もありそうである。資料、情報は、当たり前であるが、分析的に扱い処理すべきである。12世紀以前の作とされている「上宮聖徳法王帝説」は、さまざまな資料を集めているところに特徴があるが、改竄の側面と真実の情報との統一である。法隆寺の金堂にある「釈迦像光背銘」を私は一級の金石文と考えていたが、それとても怪しい点もありそうである。懐疑は、不可知論に陥る可能性もあるが、同時に健全な科学的精神でもある。疑い分析せよ。否定し、肯定せよ。肯定し、否定せよ。私の方法は、ここでは分析と相関である。
ところで九州年号と呼ばれる年号が各地の寺社に個々ばらばらに残されている。それら私年号と呼ばれる年号は、「二中暦」、「麗気記私抄」、「海東諸国記」、「如是院年代記」、「和漢年契」、「襲国偽僭考」(九州年号)、「茅窓漫録」等に記載されている。これらの年号に、歴史の真実を究明するための有用性がないかも試みる。