「 阿蘇外輪山と『聖徳』―邪馬台国と俀国を求めて」

[補論4―存在しない年号の紀年鏡と邪馬台国について]

(佐藤彰著「阿蘇外輪山と聖徳」第一部からの抜粋)

邪馬台国問題で関係があると思われるわが国で出土した「紀年が記されている銅鏡」をあげてみよう。(ただし出土古墳の推定年代にはかなりの誤差があり、古墳の推定年代と鏡の副葬との対応は困難な問題である。)
☆ 呉の紀年があるもの、山梨の6C古墳出土・赤烏元年紀年(238年)の画文帯神獣鏡、宝塚の赤烏7年紀年の画文帯神獣鏡。→呉との交易や、呉の職人が列島でつくった可能性などが考えられる。
☆ 魏の「青龍」年、京都府の丹後地区4C後半古墳出土・「顔氏作鏡」とある「青龍3年」紀年(235年)の方規格四神鏡、大阪府高槻の4C古墳出土・顔氏作鏡「青龍3年」紀年の方規格四神鏡。これらは魏と正式交渉する以前の紀年銘の銅鏡。
→魏と正式交渉する以前からの交易や、中国系の職人、倭人の職人が列島でつくった可能性などが考えられるし、景初二年(238年)十二月明帝、都で詔書を発し、その中で物品を倭の使者に託しているから、魏からの下賜物の可能性もある。ただし、丹後海部は日子火々出見、武位起=建磐龍系である。何れの時に支配者になったのか、高槻の支配者、つまり茨田連も神武(建磐龍がモデル)の子、日子八井命系である。どちらも阿蘇東外輪山と豊後からの進出者である。
☆ 卑弥呼が魏と正式交渉した翌年の「景初三年」三角縁神獣鏡(島根県4C半古墳出土)、「景初三年」平縁盤龍鏡(和泉4C末古墳出土)。
魏の使節団が来た「正始元年」の兵庫県豊岡、山口県周南市(4C前半古墳出土)、高崎(4C末古墳出土)の三角縁神獣鏡。
三角縁神獣鏡で紀年をもつものは、「景初三年」の島根県、「正始元年」の豊岡、周南市、高崎出土のものである。→ 魏との正式交渉後や正始元年の魏使節団の来倭以後の紀年であるから魏からの下賜物の可能性はある。(和泉4C末古墳出土)の平縁盤龍鏡も「景初三年」である。 ☆ 年号が存在しない「景初四年」、西都近辺から出たという斜縁盤龍鏡(龍虎鏡)(伝宮崎県児湯郡高鍋、前期古墳といわれている持田古墳群出土)、福知山の斜縁盤龍鏡。→福知山を丹後海部の勢力圏とみなせば、どちらも建磐龍系である。
分析してみる。

Ⅰ.景初2年(238年)6月、倭の使者、帯方郡で魏皇帝への謁見を望む。景初二年十二月明帝、都で詔書を発し、その中で物品を倭の使者に託す。明帝は翌年、景初三年に死す。かりに「十二月帰国」ではなく「景初三年の明帝の死~正始元年以前」の帰国出発としても「景初三年までの紀年」である。景初二年は出ていないが、景初三年紀年のある銅鏡は出ている。魏「青龍三年」紀年、景初三年紀年のある銅鏡は魏から下賜物の可能性ありうる。
この当時、魏では位至三公鏡がつくられているというから、三角縁神獣鏡は国内産の可能性もある。

Ⅱ.正始元年の魏使節団の来倭のときの下賜物としての銅鏡は、景初3年と正始元年の紀年鏡が魏からの下賜物の可能性ありうる。
 以上、Ⅰ、Ⅱからは「景初3年の紀年」鏡の三角縁神獣鏡も含めて魏の紀年のある鏡は、魏からの下賜物であるという可能性を否定できない。ただし、魏からもらった鏡は、景初二年(238年)明帝の下賜物100枚で、正始元年の魏使節の来倭の時の数はわからないが、景初二年の下賜物100枚をこえるようにはみえない。正始元年の数が100枚と仮定しても景初二年との合計は200枚、それ以後の朝貢などの時の下賜数を加えても、それをはるかに越える数の出土があると思われる三角縁神獣鏡は国内大量生産の可能性がある。

Ⅲ.景初四年は存在しない年号で、改元をしらない人物によってつくられたことは確実である。
詐欺師によってつくられたのか。景初四年の鏡を作った詐欺師は、自分が作ったか否かにかかわらず、景初三年の鏡の存在を景初三年の次の年は景初四年だから知っていた可能性は高い。
「景初3年の次は景初4年」という時系列を認識している同時次元感覚の人間たちを仮定すると、景初4年という「存在しない年号」は、改元国とは別空間の「改元をしらない人物」達によってつくられたことは疑う余地はない。
景初3年→改元「正始元年」という鏡を魏から下賜された勢力(前者A)の存在と、景初3年の鏡の存在を何かの事情で知っており、景初3年→景初4年という時系列認識で「存在しない年号」景初四年の鏡を作った詐欺師勢力(後者B)の存在を仮定する。
景初4年の次の景初5年鏡が出てきていないところを見ると、後者Bはただの詐欺師ではなく、改元「正始元年」を知りえた勢力でもあろう。すると後者Bも魏と交渉あるいは関係がある勢力と見たほうが確率的にはよい。
先の「前者A」は景初3年→改元「正始元年」という鏡を魏から下賜という全くの仮定(架空的仮定)だが、「後者B」は景初3年→景初4年という時系列認識から「存在しない年号」景初四年の鏡を作ったという事実がある。後者Bの年号詐称勢力は「存在しない年号」景初四年の鏡を作ったという事実から魏の年号に何らかの利害関係がある勢力である。
つまり前者Aの「景初3年→改元正始元年という鏡を魏からの下賜という仮定」を確認できていない全くの仮定として退けると、魏と正式交渉した勢力は後者Bの年号詐称勢力の方であるとして議論を進めることができる。
景初四年の鏡は何時つくられたのか。改元「正始元年」の後か。改元「正始元年」の鏡が魏から倭国にもたらされたか、倭国でつくられかに関係なく「正始元年」の鏡が倭国に知れ渡った後、景初四年の鏡を作る詐欺師はいない確率は高いと思う。したがって「景初3年」鏡も「改元をしらない人物」達によってつくられた、「存在しない年号」景初4年の前年の国内鏡である可能性が高い。
記録によると魏から倭国の主権王と認められたのは唯一邪馬台国である。魏と正式交渉ある邪馬台国の支配者の近侍(景初2年6月の倭の使者など)の従前の認識継続から、景初3年鏡に続いて、「景初4年の鏡」があり、しかも「正始元年」という「改元の鏡」があるということは、それは「存在しない年号」景初4年を含めて、「正始元年」の鏡を作成したという可能性が高いことを示す。その場合、「景初3年」から続く「景初4年」の鏡をつくったが、明帝の死と改元「正始元年」を知り、「正始元年」銘鏡を作ったということである。
 「景初3年」、詐称ともなった「景初4年」(紀年なし、「正始元年」に改元)、「正始元年」銘鏡の作成の目的は、魏の天子の時間支配を別空間(倭)統治支配に利用するためであり、景初4年も邪馬台国勢力が作製したことが考えられる。またその作製を魏も容認したことも考えられる。時代は下るが、宋の位を倭王武が独断で国内臣下へ授位し、その事後承認の要請の例もある。
以上から、「存在しない年号景初4年鏡の存在」から、私は「景初3年」「景初4年」「正始元年」の「魏紀年」の鏡は国産鏡であり、邪馬台国で作られた可能性が高いと思う。邪馬台国時代の権威の流布という観点から、邪馬台国の支配者に近侍のものが、存在しない年号景初4年を含めて、景初3年、景初4年、「正始元年」の鏡を鏡職人に製作させたということになる。
その場合、年号の存在しない景初4年鏡がどこで作成され、また後に流転したかが鍵であるが、年号の存在しない景初4年鏡は、現在のところ、阿蘇・千穂の建磐龍の拠点でもある西都近辺の盤龍鏡(龍虎鏡)(伝、宮崎県高鍋の持田古墳出土)と丹後海部氏の支配圏であろう福知山の斜縁盤龍鏡である。そしてどちらも建磐龍系である。
西都近辺の古墳から存在しない年号・景初4年の龍虎鏡が出ているからには、邪馬台国阿蘇東外輪山説の立場からは、それは邪馬台国やその近傍の西都原で鏡を作った可能性をうかがわせるし、丹後海部氏の支配圏であろう福知山への流布が直近であったことを推測させる。なぜなら、丹後海部氏の勢力圏は、豊後海部近辺から丹後に進出した邪馬台国勢力の直近の支配圏であろうから、間違いの産物、存在しない紀年鏡もすぐに伝わると思うからである。
では鏡職人とは誰であろうか。魏への倭の朝貢開始以来の、景初3年、景初4年(存在しない年号)、「正始元年」鏡には銘があり、作者が「陳」と明記されている。作者は中国人で、しかも「存在しない年号景初4年鏡」を作製したのであるから、当時倭に滞在していたことが分かる。島根県出土の景初3年鏡の銘には、陳本人が「杜地命出」とあり、中国から来倭したことが分かる。魏朝の派遣かどうかはともかく邪馬台国の支配者が中国の鏡職人陳氏に景初3年、景初4年(存在しない年号)、「正始元年」鏡を作製させたことが分かる。
中国人の鏡職人陳とは、景初2年12月明帝が魏からのすべての下賜品を国中に示せと邪馬台国の使者に命じているから、天子の時間支配を示すために派遣された中国人の鏡職人かも知れない。しかし、魏と正式交渉する以前の「青龍3年」紀年(235年)の方規格四神鏡には、顔氏作鏡とあるから、顔氏が当時仮に倭在住なら陳氏も以前からの倭在住の中国人の鏡職人の可能性もあるし、以前からの邪馬台国お抱えの中国人の鏡職人であるかもしれない。いずれにしても作製の動機と目的は、「景初3年」「正始元年」という天子の時間支配を邪馬台国勢力が別空間(倭)統治支配に利用するためであろう。
(注)345年顔謙の妻、劉氏を葬ったという墓誌が出土した名家の顔氏一族の東晋墓が南京にある。「青龍3年」紀年の方規格四神鏡にある「顔氏作鏡」の顔氏は、その先祖だろうか。

Ⅳ.「日向の曾」から天降った賀茂族による魏承認国・邪馬台国の権威の流布
邪馬台国の権威の流布の経路は、一方では山陰の後の海部氏からであろうが、大阪湾と大和へは、それは神武の前のヤタ烏といわれる賀茂族によるものである。山城国風土記によると「・・・日向の曾の峯に天降りましし神、賀茂建角身命、神倭石余比古の御前に立ちまして、大倭の葛木山の峯に宿りまし・・・」とあり、賀茂族は、「日向の曾」から葛木へ、そして葛木→賀茂の岡田、山城の岡田と権威を流布した。
賀茂族の進出行路には、山辺の柳本古墳群の黒塚古墳(3C末~4C前半、33枚の三角縁神獣鏡)があり、その行路の先には、平縁神獣鏡(晋の元康年号がある)を出した上狛古墳、賀茂、山城の椿井大塚古墳(宮崎持田古墳出土鏡との同笵鏡がある)がある。さらに賀茂族は、京都府や滋賀県や若狭に進出したと考えられる。
古墳年代というものは不確実なものであるが、三角縁神獣鏡はすべて通常いわれている4~6Cにかけての古墳から出土、しかも大量に作られている。したがって賀茂族が進出地域で三角縁神獣鏡を大量に作った可能性は高い。しかし、黒塚古墳の三角縁神獣鏡の同笵鏡の分布地域は、南は阿蘇の建磐龍の拠点でもある日向から九州北岸、瀬戸内海地域、その他と広範であり、三角縁神獣鏡の発祥地は、もともとは九州であろう。
黒塚古墳の三角縁神獣鏡の同笵鏡の分布地域の南端は日向である。さらには賀茂、山城の椿井大塚古墳の同笵鏡が、「存在しない年号景初4年」鏡も出土した前期古墳である宮崎県児湯郡高鍋持田古墳にある。また賀茂族の祖の生玉兄日子命は直入・久多美の剣根命の兄であるから、賀茂族は伝承通り、「賀茂建角身命、神倭石余比古の御前に立ちまして」、「日向の曾」から葛木へ天降り、そして葛木から賀茂、山城へと魏と邪馬台国の権威を流布したことを裏図ける。
邪馬台国勢力の近畿での進出地域では、高千穂王朝の大王、日子火々出見がまず祭祀され、さらにはその子孫である建磐龍(神武名によって後世消される)や大王、日子八井が祭祀されたようだ。たとえば葛城の御所の茨田地域では野口神社が日子八井を祀っている。

Ⅴ.ところで鏡副葬出土古墳群の年代と紀年とが1~3Cも差がある場合もあるがどうしてか。
三角縁神獣鏡は、出土の状況からみて副葬の形式においては軽く扱われているといわれている。しかし、賀茂族の進出地域では異常に大量である。この異常に大量な副葬を考えてみる。
古墳の推定年代と鏡の副葬との対応は困難な問題であるが、ここでは三角縁神獣鏡は通常いわれている4~6Cにかけての古墳からの出土が多いとしょう。
時代は下るが、5C中、末のウワナベ古墳からは鉄鋋が872枚も出ている。これは鉄鋋が、銀や金が歴史的にたどり着いた一般的な等価形態(貨幣)としての役割まではいってないが、その前の特殊的形態(鉄素材としての使用価値が主要だが、同時に特殊な貨幣)として蓄えられていたことを示していると私は考えている。するとウワナベ古墳は倉庫でもあったのではないだろうか。
時代は遡るが、33枚の三角縁神獣鏡を出した黒塚古墳では銅鏡の呪術用という使用価値に比して、銅製品の使用価値の相対的増大によって、倉庫としての役割も古墳にみられるのではないだろうか。それは銅鏡が呪術用という使用価値と同時に各種の銅製品の素材の蓄蔵形態という使用価値をもつようになったのであろう。そして銅鏡の呪術用という使用価値が次第に相対的に減少し、鉄の時代以前、銅鏡の大量埋蔵は、近畿では銅が生産の基礎としての使用価値を主要にもつようになったのであろう。大和では4Cから5C初には鉄器の使用の考古学的痕跡は見わたらないといわれている。ウワナベ古墳の時代では、古墳から鉄鋋が872枚も出るようになる。鉄鋋が一般的な等価形態(貨幣―銀や金)の前の特殊的形態として蓄財されていたことを示している。と同時に近畿では九州にはるかに遅れて5C中以降に生産手段の基礎が主要には鉄に移行しつつあったことを示している。 4C代には近畿ではまだ銅が主要なものだったのであろう。鉄生産に移行していない地域ほど銅の需要は高く次第に九州北部から近畿を中心に北方へと銅鏡が銅製品とともに広がっていったのであろう。
鉄への移行の時代になると、今度は鉄の大量埋蔵(蓄蔵)に比して、銅鏡が呪術用という使用価値のみに再び収斂し、最後には埋蔵品としては姿を消したのであろう。
(注)魏志弁辰条「・・・諸市買うに皆鉄を用いる」とあり、すくなくとも朝鮮南部では3C頃、鉄が一般的等価形態となっていた。北九州もそうである。
(注)銀鏡神社と天氏  西都の銀鏡(しろみ)神社は、白銅鏡を御神体とし、神社の神楽に豊磐立が登場するが、驚くことに神社の末社に「天氏神主之祖神」なるものがある。銀鏡神社の御神体で現存する鏡は、漢式鏡(BC一世紀ごろ)の「方格四乳葉文鏡」で、龍房山(銀鏡神社は麓)で天氏兼続が見つけ祀ったという。この鏡には南朝の懐良親王の話も伝説として絡んでいるが、漢式鏡(BC一世紀ごろ)の「方格四乳葉文鏡」が南北朝に絡むとはとても思われない。もともと天氏所蔵のものであろう。
ところで旧唐書に「王の姓は阿毎(あま)氏で一大率を置いて諸国を検察したので、皆恐れ従ってきた。」とある。隋書俀国伝にも「使者を送り、入朝したが、自ら大夫と称していた。」とあり、「俀王の姓は阿毎」とある。俀国の王族とその残党が白村江の敗北以後、西都、児湯郡、南郷村地区、東臼杵郡を最後の拠点としたという私の論述の立場からして、西都の銀鏡神社の末社の「天氏」と「王の姓は阿毎(あま)氏」とは関係があるのではないかと推測する。
銀鏡神社のある龍房山の頂上辺りに「逆矛」が立ててあるという。「天の逆矛」は敗北と無念の象徴であるという説もある。私が、銀鏡は俀王が敗北死したとする神門神社のすぐ南であるが、神門神社の天井裏からは一〇〇六本の矛が見つかっている。霧島山系の高千穂の峰の頂上にも「天の逆矛」があり、日向、大隈には俀国滅亡の無念の象徴があるようである。