第1篇は、邪馬壱国(邪馬台国)の所在地とその行程の追求である。
「隋書」の俀国(たいこく)伝には「邪靡堆が都でこれがいわゆる魏志の邪馬台である」と書いてある。この記載に依拠して、「三国志」魏志倭人伝と「隋書」俀国伝の双方がともに正しいと仮定して、邪馬台国への行程と所在をそれぞれから迫ってみる。これが私の方法論である。
アインシュタインは、光速不変の原理が正しいと仮定して論を立て特殊相対論を導き出した。それは導かれた法則と結果がその物理現象を矛盾なく説明でき、かつ観測や実験で実証されれば、仮定した光速不変の原理も正しいと証明されたことになるという方法である。光速不変の原理は、当時の人々には信じられない原理であったが、それを仮定したのである。
光速不変の原理の仮定にくらべれば、「三国志」魏志倭人伝と「隋書」俀国伝の双方のどちらも正しいと仮定して論考を進める方法など怪しむべきこともなかろう。
第1篇では、「文献の叙述通り」に邪馬台国を追行しようと試みた。「文献の叙述通り」とは、文献の事実と主張をその通りにあらわそうとしたものである。しかし、中国のそれぞれの王朝によって作成された史書ももちろん資料や伝聞にもとづいて史官によって整理された事実構成や主張表明であるので、「文献の叙述通り」といってもそこには「推理」、「推測」などの解釈が当然伴った。
第2篇は、第1篇で得られた結果と日本書紀、特に「景行紀」の記事との対応関係の抽出と分析から邪馬台国の残影を再生しようというものである。それは同時に第1篇で得られた成果の証明を主張しているものである。
第2篇での私の基本的な方法は、「魏志倭人伝」と「隋書俀国伝」の記事の尊重という根本基準、および中国史書と日本書紀との照応、対応関係の分析から邪馬台国の残影を導き出し、歴史を再生してみることである。
ボーアは、古典力学から量子力学への革命的移行に際して「対応原理」というものによって前期量子論を導いた。対応関係という方法は、精査し、飛躍を導く上で重要である。古事記にしても日本書紀にしても政権の正当化と史実性との対立と統一で成立している。記紀の架空性、虚偽と史実性、実在性との区別を、第三者の眼(といっても相対的)である中国史書との対応関係で精査していこうというのが第一の方法である。
次に記紀にあらわれている利害関係の対立の分析が必要である。文明の発生と発展にともなって、人種的対立、民族的対立などが含まれている地域的対立、また部族的対立、階級的対立などが引き起こす事件が歴史であり、記紀にもそれが反映しているとして分析すること。この方法が第二の方法である。
第3編は、記紀から窺うことができそうな隠された古代王権の追求、その王権が進めた統一の内容を特定の系図と地方伝承の分析を通じて明らかにしようというものである。
「漢書」は「楽浪の海中に倭人が住み、分かれて百余国をつくり、定期的に朝貢してくるという」として「百余国」があつたという。「後漢書」は「倭は韓の東南、大海の中にあり、島山に拠って住むこと百余国である。漢の武帝が朝鮮を滅ぼした後、漢に通訳を連れて使者を送った国は三十ばかりで、各国は皆、王がいるといい、代々系統を伝えていた」という。「後漢書」の「通訳を連れて使者を送った国は三十ばかり」とは魏志倭人伝で挙げられている倭の国数30と一致する。また「後漢書」は、「各国は皆、王がいるといい、代々系統を伝えていた」という。そこで第3篇では、第1篇、第2篇の成果を基礎に主として阿蘇氏の神統譜と丹後海部氏の諸系図との分析によって、記紀から窺うことのできる古代王権の追求を試みた。またその王権が進めた統一の内容を記紀や風土記を通じて、また考古学的資料にもとづいて追求した。